社会のエスタブリッシュメントは「自分(達)さえよければ」としか考えない。残念ながら、政治でも経済でも、社会の意志決定をそうした人たちが握ってしまっているので、堅い利権構造が維持される。特に最近の日本では、明らかに世論に反する法律が次々と成立してしまっていることにそれがよくあらわれています。もちろん結果として低賃金労働と貧困が蔓延し、そのまま放置される社会になっています。
イタリア・五つ星運動のフラカーロさんがサン・セバスティアンのフォーラムでまず最初に語ったことは「現代社会の一番の問題は人が他人を信用しなくなったこと」でした。その洞察に私は驚きました。
「ベーシックインカムもダイレクト・デモクラシーも、人間性への信頼をベースにした社会制度」これはエノ・シュミットさんのことばです。
私は日本でこうしたことを言う人を知りません。
フラカーロさんは言います。
「私たちの運動の目的は、もう一度人を信用する社会をとりもどす、つまりコミュニティを取りもどすこと」
他人を信用するには、まず自分を信用できるようになる必要がある。そして、自分を信用するには、自分が社会の中で大事な存在だと思えるようになる必要がある。だから、市民が自分たちの社会の決定権をもつために、ダイレクト・デモクラシーを実現する。これがイタリア・五つ星運動の目指すことです。
スイスの国民投票前に行われたベーシックインカム関するアンケートでは「もしベーシックインカムをもらっても今の仕事を続ける」と答えた人は90%にも及びましたが、一方で、およそ半分の人は「自分は仕事を続けるけど多くの人は働かなくなり、社会は悪くなる」と答えました。もちろん導入されても9割の「自分」は働くのだから、実際にそうならないことは明らかです。でも、他人もきっと自分と似たような存在で同じような行動をするとは思っていないのです。
歴史上一度も国民投票の経験がない、どちらかというと世界でも珍しい国と言える日本では、多くの人、とくに知識人と呼ばれる人たちは、「国民投票なんてとんでもない。すぐにマスメディアに騙される日本人は間違った投票をして取りかえしのつかないことになる」と言います。そして、おそらくは社会で支配的な立場にある人たちは本当に少しメディアをつかって誘導すればどうにでもなると思っているでしょう。
「失敗は取り返しのつかないもの」というイメージは特に日本人に多いと感じますが、気がつけば、海外でダイレクト・デモクラシーに取り組む人たちは誰もそのようには考えていない。
「もちろん時には間違った判断を下すかもしれない。でも、それは誰かに強いられた間違いではなく、自分たちに責任のある間違いになる」
当事者として間違いや失敗を経験することで、大事なことを学び、それを次のステップに活かすことがでる。一方で、それを恐れて何もしない限りずっとそのまま。
「人はどうしたら育つか?それは、責任と権限を与えるしかない」
ブルーノ・カウフマンさんは「ハッピー・ルーザー」という言葉を使います。彼が若い頃に手がけた軍隊廃止の国民投票では過半数は取れなかったけど、それがきっかけでスイス国民は軍隊に対する意識を一変させ、結果として軍事費の大幅な削減を実現しました。エノ・シュミットさんも同じで、彼らのイニシアチブはスイス国内のみならず、世界中でベーシックインカムの具体的な導入の議論をおこしました。もちろんイニシアチブの権利が国民にあれば、タイミングを図ってアプローチを改善して再び挑戦できるし、国民投票の決定が不本意なら、それを覆すイニシアチブを起こせば良いのです。
どうでしょう?
さて、話を元に戻しましょう。
いったい、人はどうして他人を信用しないのでしょう?
それは、生まれもった人の性質でしょうか?
それとも、生きてる中で接する情報や経験でそうなるのでしょうか?
それによって、メリットがあるのでしょうか?
それによって幸せになるのでしょうか?
どうやら、この辺に社会のブレイク・スルーがあるのでは?